Cadeau de Noel


 たとえあなたが100万回キスの雨を降らせても、私がいちど「アイシテル」と言えばゲームはおしまい。

 超高級ホテルの展望レストランを貸し切ってのディナーはなかなか素敵だった。
 夜景は素晴らしいし、ワインも食事も申し分ない。
 これで相手がもう少しいい男だったらね、と不二子は胸の内で呟いた。
 もちろん傍目には本当に感激しているように見えるだろう。
「今夜は一段と美しい、ミス・不二子。そのドレスを着た君は薔薇の精のようだ」
「お世辞がお上手ね」
 もちろん謙遜だ。体にピッタリしたボディスーツの上に真紅の羅紗を纏わせただけの今夜のドレスは、自分の魅力を最大限に引き出すよう計算されたものなのだから似合わないはずがない。
「赤がお好きなのかな?」
「そうね、ええ、私は赤が好き」
 不二子はテーブルの上で揺れるキャンドルを見つめて呟いた。
 炎のような、薔薇のような、目に焼きつくような鮮やかな赤が。
「それはよかった。これは私からのクリスマスプレゼントなんだが」
 男が滑らせてよこしたケースには、見事なルビーのペンダントが輝いていた。
「まあ、素敵!」
 今度は不二子も心から感嘆の声を上げた。ピジョンブラッドと呼ばれる最高級品だ。
「着けてみてもいいかしら?」
「もちろん」
 髪をかきあげ、白い項に繊細な金細工のチェーンを滑らせる。胸元に揺れる宝石の冷たさが肌に心地いい。
「よく似合う」
「ありがとう」
 実際、見た目も、財力も、社会的な評価も悪くはない男だった。
 いや大抵の女なら、すわ玉の輿のチャンスとばかりに身を乗り出すことだろう。
 彼はまだ三十半ばの若さでありながら、世界的に有名なこのホテルチェーンのオーナーであり、自家用飛行機や別荘を山ほど持っている。
 しかしそれはあくまで表向きの顔だ。ただの金持ちなら不二子にはたいして意味がない。
 男は、裏では主に美術品などの盗品を扱う組織のボスでもあった。
 この男には色仕掛けを使うつもりはなかったのだが、向こうがくれるというものを断る必要もあるまい。
「クリスマスイブをこんな美女と過ごせるなんて、私は世界一の幸せ者だ」
「残念ながらホワイトクリスマスにはなりませんでしたわね」
 話をはぐらかし、不二子はもう一度窓の外を見やった。
 摩天楼から見下ろす街は光の洪水だ。
 夜を知らない街とはいえ、これほどの光に包まれるのこの季節だけだろう。
「……それで、あの光よりまばゆいお宝を手に入れる鍵は手に入りましたの?」
「もちろん」
 男はもったいぶってナプキンで口元を拭うと、綺麗に片付けられたテーブルの上にそっと小さな箱を置いた。
「文字通り『鍵』だよ。―――第三帝国が南米に隠した黄金の眠る遺跡の扉を開ける」
「そしてその遺跡がどこにあるかはこの『鍵』だけが知っている……」
 不二子は魅せられた目でその古ぼけた真鍮の鍵を見つめた。
「そのとおり」
 男が重々しく頷く。
「だが私のブレインもコンピュータも、その謎を解き明かすことはできなかった。できるとすれば、それは……」
「稀代の怪盗、神出鬼没の魔術師、不可能を可能にする、不死身の男……」
 不二子が歌うように呟く。
「そう、ルパン三世しかいないとコンピューターは弾き出したのだ」
 男は忌々しげに吐き出した。
「だが奴と黄金を折半することなど出来はしない。これは私のものだ」
「ルパンが相手では折半どころか、皆持っていかれてしまうでしょうね」
 不二子は優雅に微笑んで見せた。
「でも私は折半なんて強欲なことは言いませんわ。30%で手を打ちましてよ」
「折半でもけっこう」
「え?」
 男の言葉に不二子は眉を顰めた。
「君が私の情婦になれば全部私たちのものだ」
 自信たっぷりに男が笑う。
「むろん、私にも表向きの顔というものがあるから、妻にするのは無理だがね」
「……ずいぶんと失礼なことを平気でおっしゃるのね」
 不二子は柳眉を吊り上げた。
 これほどあからさまに自分を日陰者扱いされて怒らない女がいるはずもない。
 判断は一瞬だった。
「代償に自分の女になれなんて、ルパンならそんな安っぽいことは言わないわ。キスひとつでじゅうぶんよ」
 男の目が蛇のように細くなった。
「なるほど、君のキスはずいぶん高価なようだ」
「もちろん。残念だわ、商談はこれでご破算ね」
 不二子は嫣然と微笑んで立ち上がった。
「……だが、君のキスは鉛の弾より高いのかな?」
 男の言葉と共に歩み寄ったウエイター達の捧げた盆の下から覗く銃口に、不二子がはっと立ち尽くす。
「最初から君に『鍵』を渡すつもりなどなかったよ。君を人質にルパン三世に黄金を探させるほうが簡単なのでね」
「ずいぶん汚い手を使うことね」
 だが不二子はさして堪えた様子もなく男を睨みつけた。
「誉め言葉と受け取っておこう」
「―――なおさらくだらない男だこと」
 卑怯な手を使おうと、裏の世界では生きのびたものが勝ち。
 たいした男ではないと思っていたが、そんなことを誇らしげに言う男だったとは。
「あたしも目が曇ったようね」
「どうせお前も30%どころか、ルパン三世がお宝を手に入れたらそっくり横取りするつもりだったんだろう?」
 蔑んだ目で男は不二子を見た。
 表の世界で成功している者の中には、時々こういう勘違いをする人間がいる。
 裏の世界だけで生きている人間より自分は高級な人間だというように、相手を見下すのだ。しょせん同じ穴の狢のくせに。
 いいえ、それよりタチが悪いわねと不二子は胸の中で毒づいた。
「女が一人で裏のビジネスになど手を出すからこういうことになる」
 男が合図すると、ウェイターに扮したボディガードの一人が歩み寄り、彼女のバッグに手をかけた。
「―――おまけにいまどき時代遅れ」
 不二子の嘲笑と共に、ボディガードが後ろへ弾け飛んだ。
「何!?」
「女を甘く見ないことよ!」
 不二子のバッグに仕込まれた小型の拳銃が火を吹いたのだと気づいた男たちが銃を構えようとした途端、視界を真紅の羅紗が塞いだ。
「うわあっ!?」
 不二子が身に纏っていたドレスの薄絹を頭から被せられ、混乱した男の撃った銃弾が滅茶苦茶に部屋の中を薙いでいく。
「馬鹿! 止せ!」
 その混乱を、不二子は見逃さなかった。
 身軽なボディスーツだけになった不二子は火線の下をかい潜り、手近の男の顎を蹴り砕いて獲物を手に入れる。
 不二子の銃火を受けて、男たちは慌てて倒したテーブルの影に飛び込んだ。不二子も同様だ。
 だが薄いテーブルに男たちの銃弾が集中するより早く、不二子は小さなバッグから口紅を取り出し、蓋を外して床へ転がした。
「ガス……!?」
 ルパン特製の催涙ガスだ。
 折り畳めばハンカチより薄くなるガスマスク(これまたもちろんルパンの発明品だ)を装着した不二子は、素早くテーブルの影から走り出た。
「しまった……!」
 必死に鼻と口を押さえ咳き込んでいた男が、その目的に気づく。
 2人が食事したテーブルは奇跡的に無傷で元の位置に立っていた。テーブルの上に置いたままだった『鍵』の箱をめがけて、男と女が飛んだ。
「――――!!」
 男が伸ばした指先から、箱は一瞬で掠め取られた。それは、真っ赤なマニキュアをほどこした美しい指先に。
 シャンデリアに巻きつけた真紅の羅紗をロープ代わりに使った不二子は、そのまま反対側のレストランの入り口近くに鮮やかに着地した。
 催涙ガスに巻かれて立ち上がれない男たちに「バァイ♪」と手を振り、不二子はクロークに預けていたミンクのコートを羽織ってエレベーターのボタンを押した。
 扉は、すぐに開いた。
「!!」
 足元にぽっかりと口を開けた奈落の底に、はっと不二子は息を呑んだ。
 慌てて振り返れば、ようやく催涙ガスから抜け出してきた男と数人のボディガードがよろよろと、しかし勝ち誇った様子で歩み寄ってくる。
「そのエレベータは私専用でね」
 男はにやりと笑った。
「専用のリモコンがなければ操作できないんだよ」
「…………」
「何なら飛び込んでみるかい?」
 男が歪んだ笑いを向けたが、不二子はこわばった顔にふっと笑みを浮かべた。
「あら、そう」
「……何?」
 戸惑う男の前に、不二子は小さな箱を掲げて見せた。
「そのリモコンていうのは、これのことかしら?」
「馬鹿な……!!」
 真っ青になる男たちに向けて、不二子はひょいとボタンを押した。
「ああああああ!!」
 男たちの悲鳴が、突然足元に開いた穴に吸い込まれていく。
「自分達が飛び込んでれば世話はないわね」
 不二子は軽く肩を竦め、ハイヒールの踵をかつんと鳴らしてもう一度エレベータに向き直った。
「……やあねぇ。ボタンがいっぱいあるから、間違えちゃったじゃない」

***

 エレベーターの扉が開くと、しんと静まり返った冷たい空気が不二子の頬を撫でた。
 高級車がずらりと並ぶコンクリートの空間は、地下のオーナー専用駐車場だ。
 油断なく人の気配がないことを確かめてから箱を出る。後ろでエレベータの扉が閉まる音がして、不二子はようやくほっと息をついた。
「――――――」
 その紅い唇に、計ったようなタイミングでシガリロが差し込まれる。
 不二子は驚いた様子もなく、続いて火がつけられたシガリロを自分の指で取り上げると大きく一度吸い込み、焦らすようにことさらゆったりと紫煙を吐き出した。
 それから静かに振り返る。
「―――どうしてここがわかったのかしら、ルパン?」
「不二子チャンのことなら、なぁんでもわかっちゃうのよ、俺は」
 真っ赤なジャケットを着た男は、おどけて答えた。
「そう」
 不二子はそっけなく頷く。実際そうだろう。
 彼を手のひらで転がしているように見えて、実際に彼の手のひらで転がされているのは自分の方かもしれない。
 ルパンはその顔を見て少し苦笑した。
「それに今夜はクリスマスイブだろ?」
「何かプレゼントしてくれるのかしら?」
「プレゼントは俺自身さ」
 いつもの軽いジャブに似たやり取り。
 しかしそこでルパンはいつもと違い、ちょっと苦笑した。
「それにしても無茶するな、不二子。一歩間違えば300メートルの高みからスカイダイビングするところだぜ」
「投身自殺したら欠片も残らないっていうわね」
 不二子はあっさり答えた。
「そうそう、こぉんな美味しそうなボディが塵になっちゃったらもったいな……あぢいいい!」
 胸元に滑り込んだ手に煙草の火を押し付けられて、ルパンが悲鳴をあげる。
「あたしはそんなへまはしないわ」
 不二子は不敵な笑みを浮かべた。
「あなた、あたしを誰だと思ってるの、ルパン?」
「もちろん」
 ルパンが同じ笑みを浮かべ、歌うようにつぶやく。
「謎の女、女スパイか女盗賊か、俺にも正体を掴ませない謎のカワイコちゃん……」
 そしてそっと、その手の甲に恭しく口付けた。
 だが見上げた黒曜石の瞳は、その仕草に似つかわしくない鋭い光を放っている。
「……そしてルパン三世にふさわしい、世界でたったひとりの女さ」
「しょってること」
 笑いながら、不二子はそのキスを受け入れた。


「それで、お目当てのものは手に入ったのか?」
 地下駐車場から失敬したありふれたベンツを運転しながらルパンが助手席の不二子に尋ねる。
「もちろんよ」
 不二子は胸元から1本の鍵を取り出した。
 ただの古ぼけた真鍮の鍵に見えるそれが、黄金郷への扉を開く鍵だとは誰も思うまい。
「本物だろうな?」
 ルパンの問いに不二子は笑った。
「あいつが本物をあたしに見せるわけがないでしょう? これはちゃんと、あいつが隠してた本物の方よ」
 専用エレベータでしか行けないオーナーの部屋で、偽物とすりかえてきたのだ。最初からあの男と手を組むつもりなどさらさらない。
「あいつが用意した偽物を盗んで見せたのは、あたしが騙されたと思わせておくためよ」
「さぁすが不二子ちゃん、一筋縄じゃいかないこと」
 ルパンが口笛を吹く。
「『鍵』は手に入れたけど、謎を解くのはあなたにしかできないのよ。ねえ、ルパン……」
 甘ったれた声を出し、彼の肩にしなだれかかる。
 不意に車はスピードを落とし、手近の公園へ入っていった。
「……ルパン?」
 てっきりいつものごとく鼻の下を伸ばして襲い掛かってくるだろうと思っていたのに、ルパンは動かない。
 黙って煙草に火をつけ、静かに紫煙を吐き出した。
「今夜のところは、芝居はいいぜ、不二子」
「え?」
「さすがに怖かったんだろ? 手がふるえてる」
 言われて初めて、不二子は気づいた。
 彼に縋った自分の手が細かく震え、子供のように彼のジャケットを握り締めていることに。
「……怖くなんか、なかったわ」
 不二子は呟いた。
 だが手は、ルパンのジャケットを握り締めたままだ。
「怖くなんかなかった」
 再び繰り返す。
 けれど手は離れない。真っ赤なジャケットを握り締めたまま。
 炎のような、薔薇のような。
 そうよ、私は赤が好き。
 そう言ったのは自分なのだから、こんなことはなんでもない。
 選んだのは自分なのだから、なんでもない。
 そう言い聞かせても、震えは止まらない。
「不二子」
 ルパンがそっと不二子の肩を抱いた。
「……ルパンのバカ」
「バカはないだろ」
 ルパンが苦笑する。
 不二子はぎゅっとその胸にしがみついた。
 目を閉じるといつもいつも広がっている、果てしのない暗闇。
 一寸先は闇とか、昔の人は上手いことを言ったものだ。
 いつどこに落とし穴が待っているかわからない。
 こんな裏の世界を歩いている人間にとってはまして。
 ―――でもあたしは、見つけてしまったの。
 不二子は薄く目を開ける。
 視界を染める、鮮やかな赤。
 炎のような、薔薇のような。
 目蓋の裏に焼きついて離れない、まばゆいほどの。
「キスして、ルパン」
 ルパンがほんの少し驚いたように身じろぐのがわかった。
「キスして」
 もう一度囁く。
「不二子」
「クリスマスプレゼントはあなたなんでしょう?」
 その言葉に、ルパンが苦笑する。
 本当に、ルパンは何だってわかっているのだ。
 100万回「アイシテル」とあなたが言っても、私が一度「愛してる」と言えばゲームはおしまい。
 だから必要なときには、彼は自分から与えてくれる。
 不二子が、魔法の呪文を唱えなくてすむように。
 ―――けれどそれは、やさしいのと同じくらい、残酷なことね。
 不二子は胸の内で呟き、近づいてくるルパンの黒曜石の瞳を見つめながらそっと目を閉じた。
 車の上に、静かに雪が積もり始めていた。

***

「―――それで、結局不二子はその『鍵』だけ置いてドロン、お前は大風邪を引いて帰ってきたってわけか。とんだクリスマスの贈り物だな」
 めいっぱい毛布にくるまり、氷嚢を額に当てたルパンを次元は呆れ顔で見た。
「馬鹿は風邪を引かねぇと思ってたがな」
「うるへぇ」
 体温計をくわえたルパンが睨みつける。
 へいへい、とおざなりに答えた次元は、しかし引っこ抜いた体温計を見てさすがにぎょっとした。
「げ、39度もあるぞおい」
「へー」
「へーじゃない! 寝てろ、てめぇは!」
 ベッドに押し倒されて、ルパンはもごもごと抗議の声を上げた。
「あん? 何だ?」
「だぁから……その『鍵』を取り返しに来る連中が、いるかもしれないから……」
「その体調で動けるか馬鹿野郎! 連中に見つからないようせいぜい祈ってろ!」
 次元は怒鳴りながら部屋を出て行った。五右エ門や情報屋に連絡をとるのだろう。
 ああは言っても、ルパンが動けるようになるまでは何としても守り通してくれるに違いない。
 まったく義理堅い男で助かること、とルパンは鼻を啜りながらテーブルの上に無造作に置かれた『鍵』を見やった。
「……『鍵』、か」
 それは、扉を開けるためのものだ。あるいは閉ざすための。
 不二子が手に入れた鍵は、誰の扉のものだろう。
 稀代の怪盗か、それとも謎の女スパイか。
 けれど彼女は、鍵を開けるのを恐れている。
 開けてはいけないよと言われた扉の向こうには、たいてい災いが待っているものだから。
「―――いつかは、な。不二子。いつかは」
 そう、いつかは、その鍵を開けるだろう。
 鍵を使うのが彼女か、自分か、それはまだわからないけれど。
 わかっているのは、たったひとつ。
 それは『いま』ではない。
 まだ自分は、誰かただひとりのものにはならない。
 もしかしたらそれは、永遠に。

「―――だって俺たちは、まだ飛べるだろう、不二子?」

 だから彼女は、唇を塞ぐ。
 真っ赤なルージュで、情熱的なキスで。
 最後の魔法の言葉を封じるために。


 クリスマスの朝目覚めると、ルパンの手元にはただ、小さな『鍵』が残されていた。




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*去年は次元×ルパンでしたので、今年はルパン×不二子編。
 ウチの不二子ちゃんは実はかなりルパンが好きなんですが、だからといって頼り切ってるわけじゃなく、戦う女なのよというお話を書きたかったんですが、アクションは難しいです(涙)。しかも最後はなんか路線変わってるし。
 本当はEGO-WRAPPIN'の『くちばしにチェリー』がテーマ曲のかっこいい話を書こうと思ったんですよ!(これめっちゃ不二子のイメージなんです)
 でも結果はこういうことに……って本当に「競うスピードより重要なのは着地♪」です(涙)。