ベッドで寝入っている黒崎をちらりと見やって、神志名はそっとベランダに出た。
 手すりにもたれ、煙草を吸いながら朝日に輝く街を見下ろす。
 早朝のクラブ練習でもあるのか、下の道を中学生らしき少年が自転車を飛ばして横切っていった。
 それが、昔の自分の姿に重なる。
 幼い頃からクラスでもクラブでも中心で、級友や後輩には慕われ、先輩には可愛がられ、教師には信頼される存在だった。
 いつだって、日の当たる道を歩いてきた。
 それがずっと続くのだと信じていた。
 あの、瞬間までは。
『―――野添将が、君の、本当の名前だ』
 今も神志名は日の当たる道を歩いている。
 ただ、気づいてしまっただけだ―――その足元に、影のないことに。
 『神志名将』は本当は存在しないのだから。
 いずれ誰かが気づくだろう。
 いや、神志名が出世すれば目障りになる誰かが必ず調べだすことだ。
 わかっていて、警察官僚への道を選んだ。
 幼い頃からの夢を叶えるために。
 あのとき秋山刑事局長が言ったように、犯罪によって傷つけられた人々を救うために―――。
 神志名は体を反転させ、手すりに背中を預けて紫煙を吐いた。
 視線を落とした先にある自分の影に、ふと、黒崎の姿が重なって見えた。
 詐欺師に影ばかりか全てを奪われ、その詐欺師に復讐すべく自ら犯罪世界に足を踏み入れた男。
 彼が喰らうのは、ただ、シロサギのみ。
 ―――お前は、俺のなくした影なのか―――?
「……何やってんの?」
 突然窓が開いて、俯いたままの神志名の視界に白い裸足が現れた。
 ゆっくり視線を上げていくと、ジーンズにシャツを羽織っただけの黒崎が目をこすりながら立っている。
「見ればわかるだろ」
 煙草をくゆらせて答えると、黒崎は眉を顰めた。
「アンタ、ホタル族だったのか? ……ってあれは夜か」
 ホタル族とは確か、匂いがつくから部屋で吸うなと妻に追い出されてベランダで煙草を吸う夫たちの俗称だったか。
「でもアンタ独身じゃん」
「アイツが匂いを嫌がるからな」
 顎で示されたアイツは、飼い主が起きだしたというのに未だに犬用クッションハウスで眠りこけていた。
 嗅覚が人間の数千倍の犬にとって、煙草の匂いは耐え難いものだ。
「アンタ、犬にはやさしいよな」
 黒崎がぼやく。
「『犬には』は余計だ」
「俺にも少しはやさしくしろよ」
「してるだろ」
「どのへんが?」
「……逮捕しないでやってる」
 その言葉に黒崎がふきだした。
「逮捕できないでいる、の間違いだろ」
 むっとする神志名に、小さく付け加える。
「……証拠さえありゃ、アンタは逮捕するさ」
 その言葉に、神志名は街を見下ろす黒崎の横顔を見つめた。
 いつも黒ずくめで闇に沈みこむような印象を与える男だが、今日は神志名のシャツを着ているせいか、それとも朝の光の中のせいか、ひどく軽やかに見えた。
 普通の、どこにでもいる学生のように。
 神志名は思わず口を開いた。
「……逮捕しないでくれとは言わないのか」
 黒崎が不思議そうに神志名を見て、ちょっと苦笑した。
「おまわりさんに向かってそう言えるほど、俺も図太くないよ」
「……ふん」
 何時の間にか短くなっていた煙草を携帯灰皿で押しつぶし、次の煙草を咥える。
 火をつけて一服したところで、黒崎がじっと一連の動作を見つめていることに気づいた。
「何だ?」
 一本欲しいのか、と思ったとき。
「いや……アンタ、やっぱりお日様が似合うよ」
 意外な言葉だった。
「俺とは違う」
「……別れ話か?」
 思わずそう聞き返していた。
 黒崎が呆気にとられた顔をする。
「そう聞こえた?」
「違うのか?」
「別れたいわけ?」
「ち……」
 反射的に違う、と言いかけて言葉に詰まる。
 そもそも付き合っているわけではないのに別れるも何もないはずだ。
 神志名は大きく息を吐き、煙草を押しつぶした。
「……俺とお前が違うのは当たり前だろう。第一、同じものなんか欲しくない」
 黒崎の顔を見ないようにして一気に言い切る。
「俺は、影が欲しいんだ」
 黒崎は今度こそ真剣にわけがわからないという顔をした。
「……変わってるね、アンタ」
「お前ほどじゃない」
 そう、お前ほどじゃない。
 何もかも失って、傷ついて、その傷から逃げることも忘れることもせず、全て奪った男と同じ闇の中に身を投じたお前ほどでは。
 ―――俺には、そんな真似は出来ない。
 それが、日の当たる場所しか歩いてこなかった神志名の限界だ。
 神志名は小さく首を振り、黒崎の肩を叩いた。
「それより、せっかく起きたなら付き合え。お目覚めだ」
 窓ガラスの向こうで、いつの間に起きたのやら犬がリードを咥えて尻尾を千切れんばかりに振っている。
「ほんとアンタ、犬にはやさしい……」
 犬は好きだが運動は苦手な黒崎がため息をつく。
 その唇に触れるだけのキスをした。
「これでいいか?」
 黒崎の目を覗き込んで尋ねると、真っ赤になって睨みつけてくる。
「やさしくしろってのは、こういうことじゃなくて!」
「なくて?」
真顔で問い返すと、真っ赤な顔で俯いた黒崎の両腕が神志名の背中に回った。
「……やっぱ、これでいい……」
 犬が催促するように窓ガラスの向こうで吠え立てていたが、
防音ガラスに遮られ、深く口付けるふたりの耳には届かなかった。

*いいじゃんラブラブでも(涙)!
神志名は髪も目も茶色いのでお日様にすかすととても綺麗だと思います。
きっと紅茶色なので甘いもの好きの黒崎にはたまらんのです(笑)。
ところでおふたりさん、ベランダでいちゃいちゃしてるとご近所にバレます。
(神志名の部屋は5階あたりの設定ではありますが)(いやなんとなく)


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