遠雷

 夕方から怪しかった空模様は、いまや魔女が呪いでもかけたようなおどろおどろしい暗雲に覆われ、嫌な風が吹き始めていた。
 大粒の雨が降り出したのは、外出していた神志名が署に直帰の連絡を入れた直後だった。
 慌てて手近のマンションの入口に駆け込むが、それだけの間にスーツは見事な水玉模様になっている。
 おまけに雷まで鳴り出した。
 舌打ちして、神志名は現在地を確認した。
 駅前までコンビニはないし、それまでに電車に乗るのもためらわれるほどずぶぬれになるのは確実だった。
 それよりは幾らか近い場所にある『あいつ』の家なら、たとえ濡れても服は乾かせるし傘も貸してもらえるだろう。
 予定外の訪問を喜ばない相手であることは知っていたが、雨はいっこうに止みそうになく、背に腹はかえられない。
 決意してスーツの上着を傘代わりに走り出した神志名だが、じき目当てのアパートにつくというあたりでドーンという鈍い音を聞いたと思った瞬間、ふっとあたりが暗くなった。
 電柱の蛍光灯も家々の窓の灯りも全て消えている。
「停電か」
 恐らく落雷のせいだろう。
 面倒なことになったと思いながら、神志名はようやく辿りついたアパートの階段を一足飛びに駆け上がった。
 目当ての一番奥の部屋は明りが消えているが、不在なのか停電のせいかわからないから神志名は無遠慮にドアノブを回した。
 この部屋の主は在室の場合、ほとんど鍵をかけていない。
 不在の時ですらかけ忘れていることがあるので、ずぶぬれの神志名としてはもちろん鍵がかかっていないことを期待していた。
 そして期待に違わずドアは開き、神志名は「邪魔するぞ」と言いながら真っ暗な室内に一歩足を踏み入れた。
 途端に、ベッドの上で光った一対の目にぎくりとする。
「なんだ、猫か」
 思わず声に出した瞬間、足元にするりと何かがまとわりついた。
「うわっ!?」
 驚いて見れば、ドアから入るかすかな光に浮かび上がっているのは黒猫だった。
 と、すれば。
「おい……黒崎?」
 靴の中まで水浸しで少し躊躇ったが、靴を脱ぎ部屋に上がる。
 真っ暗なせいで床に散らかった物を幾つか踏んだが、気にする余裕はなかった。
「……何してる?」
 そっと、ベッドに近づく。
 ベッドの上、頭から毛布を被り丸くなった黒崎がガタガタと震えていた。
 神志名が見えていないようで、視線は足元に落ちたままだ。
 雷鳴の音にびくりと震え、さらに小さくなっていっそなくなってしまいたいように体を必死で縮こまらせる。
「おい、大丈夫か?」
 神志名は躊躇いながらそっとその肩に手をかけた。
 途端にびくりと黒崎が顔を上げる。
「……嫌だ」
 掠れた声。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ」
 壊れたテープレコーダーのように繰り返す黒崎に、神志名は胸の底がすっと冷たくなるのを感じた。
「おい、しっかしりろ」
「嫌だ、止めろよ、止めてくれ」
 窓の外でひときわ強い稲妻が走る。
「止めて、ころさないで……父さん!」
「黒崎!」
 耳をつんざくような叫びを上げる黒崎を、神志名は咄嗟に抱きしめていた。
 嫌だ嫌だと必死に暴れる黒崎を力いっぱい抱きしめて押さえつける。
 黒崎が子供のように胸や背中を拳でめちゃくちゃに叩くが、神志名は腕を解かなかった。
「大丈夫だ……大丈夫だから」
 ただそれだけを、耳元に囁きつづける。
「大丈夫だ……」
 どれくらいの時間が経ったのか。
 雷鳴が遠くなった、と気づいたのと、拳がシーツに落ちているのに気づいたのとほとんど同時だった。
 用心しながら、そっと腕をほどく。
 どこか放心した顔で、黒崎が神志名を見つめていた。
「……なんで、アンタ……」
「雨宿りだ」
 とりあえず事実だけを伝える。
「ひどい雷だったな……そろそろ電気がついてもいい頃だが」
 言った側から、蛍光灯が幾度かぱちぱちと明滅したと思った瞬間、ぱあっと部屋中が明るくなった。
 机の上、つけっぱなしだったらしいパソコンに起動画面が浮かぶ。
 黒崎は眩しげに電灯を見上げ何度か瞬きした。
 神志名は自分がずぶ濡れだったことに気づき、とりあえず立ち上がった。
 黒崎がかぶっていたシーツも、神志名が膝をついていた場所も既にじゅうぶん濡れていたが。
「……お前、雷が怖かったのか」
 まだ幾らか放心している黒崎に冗談めかして声をかける。
 黒崎は彼を見上げて、小さく笑った。
「……雷だけなら、平気なんだけどな」
 あと停電も、と呟く。
「でも、両方は駄目なんだ」
 なぜ駄目なのか神志名は聞かなかった。
 聞くまでもないことだった。
「シャワーを借りる」
 黒崎が落ち着くまで、とりあえず離れようと思ったのだが。
「…………」
 足を引っ張られる感覚に振り返れば、黒崎が神志名のズボンの端を掴んでいる。
「俺に風邪を引かせる気か?」
 濡れて肌に張り付いたシャツをつまんで見せると、黒崎は手はそのままに俯いた。
「……また、停電するかもしれないだろ」
 遠くで、かすかに雷鳴が響いた。
 もう大丈夫だとは思うが、ズボンを掴んだ黒崎の手がかすかに震えているのを見てしまっては、何も言えなかった。
 仕方なく、そのままベッドに背を預ける形で座り込む。
 神志名は正直、ここに来たことを後悔していた。
 こんな黒崎を見たくはなかった。
 それに気づかれまいと、いつもの憎まれ口を叩く。
「風邪を引いたら、お前のせいだからな」
「……脱げばいいじゃん」
 ネクタイを外し、濡れたシャツの袖をたくしあげていると、ぼそりと呟かれた。
「タオルと替えの服を貸してくれるならな」
 これで裸になったら本当に明日は病院行きだ。
「いいから脱げって」
 ふいにベッドの上から伸びてきた手が喉もとのボタンにかかる。
「おい、こら!」
 思わず見上げた神志名のすぐ目の前に、黒崎の顔があった。
 ベッドの上から身を乗り出した黒崎が、そのまま覆い被さるようにして口付ける。
「ん……つぅ」
 のけぞるようにして受け入れる神志名は、首の痛みに呻いた。
「……からだ硬いね、アンタ」
「うるさい!」
 呆れた顔で呟いた黒崎を怒鳴りつける。
 だが既にクロサギはいつものふてぶてしさを取り戻していて、ベッドの上から神志名の髪を指に絡めて遊び始めた。
「髪も濡れてるし……唇もずいぶん冷たいぜ」
 誰のせいだ、と思うが黙って睨みつけた。
「シャワーは汗をかいたあとでもいいだろ?」
 手を差し伸べられて、神志名は目を瞬いた。
「……俺は冷え切ってる」
「わかってるよ」
「冷たいだろ」
 シーツの上から抱きしめるのとはわけが違う。
「いいよ」
 黒崎が少し泣きそうに笑った。
「今は、アンタと離れたくない」
 こんな顔を見たくはなかった。
 憎みきれなくなってしまうから。
 神志名が警察に入ろうと決めた理由の、守るべき人間のひとりにしか見えなくなってしまうから。
 ―――こいつは、クロサギだ。
 自分に言い聞かせて、神志名は立ち上がった。
「……一緒にシャワーを使うっていう選択肢はないのか?」
「スケベ」
 言下に返された言葉は知らない振りでシャツを脱ぎ捨てる。
「抱いていって欲しいのか?」
「いや大体狭いから無理……ってわあっ!」
 聞く耳持たずにベッドの上から細い体をすくいあげる。
 さすがに女性のようにはいかなかったが、何しろシャワールームはすぐそこだ。
「馬鹿、冷たいって!」
 薄いシャツ1枚で神志名に抱かれる形になった黒崎が悲鳴を上げる。
「そう言っただろ」
「だから俺があっためてやるって言ったのに」
 ぼそりと呟いた黒崎が耳まで真っ赤になっていることに気づいたが、神志名は何も言わずシャワールームに黒崎を放り込んだ。
 コックを捻ると瞬く間に熱湯が飛び出し、湯気が狭い空間を曇らせていく。
 その湯気に紛れて、ふたりはもう一度キスをした。
 雷鳴はもう、ひどく遠かった。

*梅雨の季節なのでトラウマと絡めて。
無理心中の日に都合よく雷雨だったとは思いませんが雰囲気で!
「星の綺麗な夜だった」とか悲しすぎるじゃん(涙)!


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