CLOSER
(2)

「ごっそさん」
 神志名が代金を支払って外へ出ると、意外にも黒崎はまだそこにいた。
 てっきりもう逃げ出していると思ったのだが。
 黒崎が見透かしたようににやりと笑った。
「礼に上野東署への近道を教えてやるよ。こっちこっち」
「おい、俺は別に……」
 急いで戻る必要もないのだが、黒崎がさっさと裏道へ入っていくから仕方なくあとを追った。
 雑居ビルの隙間、それこそ猫しか通らないんじゃないかと思うような道を黒崎はすいすい歩いていく。
 だが慣れない神志名は落ちているビール瓶だの雑誌だのを避けて歩いていたらだいぶ遅れてしまった。
 気付いた黒崎が立ち止まって振り返ると、仕方ないなというように足を止めた。
 その余裕の表情に何となくむっとする。
「お前にはお似合いの道だな」
「確かにキャリア様には似合わないな」
 黒崎が腕組みをしてにやりと笑った。
「アンタが今日やったのはそういうことさ」
「何……?」
 思わず数歩手前で立ち止まる。
「キャリア様が現場ひっかきまわしてちゃ、叩き上げの刑事にゃ疎まれ、キャリア連中にはハグれもの扱いされるぜ」
「覚悟はあるさ」
 神志名は皮肉な笑みを浮かべて答えた。
「だがそれでも俺は警察官で、キャリアだ。業界の人間にも、表の人間にも疎まれ、追われるお前とは違う」
 刺すような視線と共に、煙草の先を黒崎の胸に向ける。
「お前は、『線の向こう側』の人間だ」
 それを、黒崎は黙って受け止めた。
 その沈黙を、神志名は噛み締める。
 ―――こいつと俺は、同じ線の上に立っているのかもしれない。
 追うものと追われるもの、法を破るものと守るもの、犯罪者と一般市民を切り分ける、その目に見えないが確かに存在する、1本のラインの上に。
 だがふたりが向いている世界は180度違う。
 互いに限りなくもう一方の世界に近い場所にいながら、決して振り向こうとはせず、頑なにそのラインを守っている。
 すぐ隣に立っていながら、互いの顔は見えない。
 そんな関係。
 だが神志名は検事志望でありながら黒崎に特別な感情を持っているあの女子大生のように、彼に同情したり、救いたいと思ったりはしない。
 わかるのだ。
 ―――こいつは、そんなことは望んじゃいない。
「お前は必ず俺が捕まえてやる。覚悟しとけ」
 それが、神志名と同じ強い意志を持ちながらまるで正反対の道を選んだ黒崎に対する神志名の答えだ。
 だがその言葉を聞いた黒崎の反応は予想と違っていた。
「……あんたのそういうとこ、嫌いじゃないぜ」
 かすかな微苦笑と共に、黒崎は神志名に近づいてきた。
 胸が触れ合うほどの距離。
 鴉の濡れ羽色の瞳が、神志名の目を覗き込んだ―――目は心の窓というが、まさしく自分の心を覗き見られているような感覚。
 黒崎は薄い笑みを浮かべて、すくいあげるように神志名の唇に自分のそれを重ねた。
 あまりに予想外の出来事に、神志名は咄嗟に動けなかった。
 本当にすぐ目の前に黒崎の顔がある。
 焦点が近すぎてぼやける顔は誰か他人のもののようで、実際、いま自分に口付け、さらに奥深く侵入しようと閉ざされた唇をノックしている舌が誰のものなのかわからなくなっていた。
 ただかっと体が熱くなり、神志名は自分の胸に触れていた相手の手首を掴むと体を反転させ、そのまま薄汚れたコンクリートに押し付ける。
 衝撃に相手が呻くのが伝わってきたが、構わず口付けを深くして、逆に相手の口内を犯した。
 無遠慮にかきまわす舌に応えてくる舌は熱く、神志名の背中に回った手が上等のスーツに皺を作る。
 密着した体がたまらなく熱く、口付けだけで上り詰めてしまいそうだった。
 事実、上り詰めていただろう―――息継ぎの合間に、相手が、彼の名を呼ばなければ。
「かし、な……」
「!」
 低く、熱い囁き。
 だが神志名には雷が落ちたように聞こえた。
 咄嗟に相手を突き飛ばすようにして体をもぎ離す。
 しばし荒い息をつきながら、互いに半ば呆然と見詰め合った。
「……ひどいな、刑事さん」
 先に言葉を吐いたのは黒崎の方だった。
「あんた、終わったあと女にこういう扱いするわけ?」
 言葉とは裏腹に、鋭い瞳―――獲物を狙う時、きっとこいつはこんな顔をしているのに違いないと思った。
「お前……っ」
 何か言いたいが頭が真っ白で言葉が出てこない。
 どんな場面でも、相手に呑まれることなどなかったのに。
「…………」
 その神志名を見ていた黒崎が、ふいに吹き出した。
 油断ならない犯罪者の表情は一瞬で消えうせ、 妙に子供っぽい顔になる。
「冗談だよ」
「……何?」
「少しからかっただけさ……あんたには初対面でひどい目にあわされたしな」
 髪で隠れた額の傷に手をやると、神志名ははっとして俯いた。
「あの時は……」
 ぎゅっと拳を握り締める。
「……すまん、やりすぎた」
 意外な言葉に、黒崎は一瞬ぽかんとして、ついでどっと笑い出した。
「な、何がおかしい!?」
「いやあ、あんた最高……ぜんっぜんキャリアに見えないよ」
 涙まで流して笑う黒崎に、神志名は今度は別の意味で体が熱くなるのを感じた。
「お前は絶対俺が捕まえてやるかな……覚悟しておけよ!」
 怒鳴りつけて、ツボに入ってしまったらしい黒崎の笑い声を背中で聞きながらずかずかと歩いて路地を出る。
 陽の光のまぶしさに目を細め、一瞬気を取られた神志名は、その一瞬に黒崎の笑い声が聞こえなくなっていることに気づいて慌てて振り向いた。
 だが薄暗い路地はもうがらんとして、誰の姿もない。
「さすが逃げ足は速いな……」
 その呟きは、我ながら言い訳めいて聞こえた。
 陽の射さぬ路地から目を背けて歩き出す時、神志名はちらりと抱きしめた体が思った以上に細く、小さかったことを思い出した。
「……ちっ」
 金なら山ほど持ってるんだからまともなものを食えってんだ、と胸の中で毒づく。
 次に会ったら嫌がらせに高級フランス料理店に連れ込んでやる、と 決意して肩を怒らせ歩き出す神志名は、けれど、その裏にあるもうひとつの感情には気づかなかった。


*ウチのカシクロはどっちかというと黒崎→神志名です。共済組合詐欺事件で神志名の秘密を知っちゃったり、粉飾決算詐欺事件で神志名の頑張りを知っちゃったりと黒崎が神志名を好きになる要素の方が強いかなーと。
いや単に私が神志名好きなのもあるんですが(笑)。


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