理由
好きなのかと聞かれれば答えはノーだ。 では体に溺れているのかと聞かれればこれも答えはノーだった。 神志名はこれまで何かに溺れるという経験をしたことはないし、今でも寝るなら女性の方がいいと思う。 火遊びにスリルを感じる性質でもない。 ではなぜあの『クロサギ』と付き合っているのかと言われれば、自分でも答えが咄嗟に出ない―――。 携帯電話が鳴り出して着信番号を見た瞬間、考えたのはそんなことだった。 ほんのコール1回分の、刹那の思考。 「はい」 『俺だけど』 「何だ?」 素っ気無い返事。 それで相手には、神志名がまだ署にいることがわかったはずだ。 『……今日遅いのか?』 ほんの少しガッカリしたような声。 「いや、じきあがるところだ」 時計の針はもう21時を回っている。 遅くなると言えば相手は引いたのかもしれないが、こちらが避ける理由はないと自分に言いきかせた。 『じゃあ今から部屋に行ってもいいか?』 「かまわんが―――」 部屋の隅に移動し、周囲に人がいないことを確認して答える。 「食うものが何もないんだ。買い物していくから……」 『あ、じゃあスーパーの前で待ち合わせようぜ。駅前のあそこだろ?』 まさかそんな提案をされるとは思わなくて、神志名は一瞬面食らった。 『神志名?』 「あ、ああ」 『10時でいいよな』 「……わかった」 初めての提案に少し戸惑いながら返事をして、 神志名は電話を切った。 「スーパー……?」 果たして黒崎は本当に駅前のスーパーマーケットの前で待っていた。 自分で提案したくせに、決まり悪げな顔は母親の買い物に付き合わされた中学生のようで、ちょっと笑いそうになる。 「……何だよ」 「いや別に」 言いながらさっさと買い物カゴを取り中に入る。 店は神志名と同じように仕事帰りらしいサラリーマンやOLで意外ににぎわっていた。 タイムセール品やビールをカゴに放り込みながら進むが、後ろを本当に子供のように黒崎がくっついてくるので落ち着かない。 「大体なんでここで待ち合わせようなんて言い出したんだ?」 「アンタのマンションの近く、コンビニもないだろ。先に着いちまうと居づらいんだよ」 それに欲しいものもあったし、と言いながら勝手にカゴにスナック菓子を放り込んでいる。 「これ新発売なんだけど、ウチの近所じゃ売ってないんだよな」 「お前な……」 「キャリア様でも自炊するんだ?」 怒ろうと思ったが、まるで本当に小さな子供のようにはしゃいでいるのでなんともやりづらい。 「コンビニ弁当や外食ばかりじゃ栄養が偏るし、金が続かないからな」 「アンタ高給取りなんじゃないの?」 「俺はまだ警部補だし、公務員の給料なんて世間が思ってるほど高いもんじゃないぞ」 ましてや神志名は家賃の安い官舎ではなくペット可のマンションに住んでいる。 家賃だけで給料の半分近くが飛んでいくのだから自炊は必至だ。 「お前もたまには……」 料理くらいしろ、と言いかけて、黒崎が包丁を握れない理由を思い出し口を噤む。 「何か言ったか?」 デザートコーナーでプリン選びに忙しく聞いていなかったらしい黒崎に、いや、と首を振って神志名は彼が差し出したプリンを黙ってカゴに入れた。 マンションに到着して暗証を入力し、オートロックの扉を開ける。 確かに黒崎が先にここに着いても入れないわけだから、待ち合わせ自体は正しいのかもしれない(場所は別として)。 かといって暗証番号を教える気にはなれず、そんな自分にまた黒崎に対する感情を名づけられない不快さが甦る。 「さっさと入れ」 「はいはいお邪魔しまぁっすと」 神志名の不機嫌はいつものことだという顔で黒崎が部屋に入る。 途端に玄関で待ち受けていたドーベルマンが飛び出してきて、神志名の足元にじゃれつく。 「よしよし、ほら、中に入れ」 頭や背中を撫でてやりながら中に入ると、無視された黒崎が恨めしげな顔をしていた。 「そういう顔、たまには俺にもしてみろよな」 「犬も人を見るってことだ」 「いや犬じゃなくてさ……」 何かぼやいているのを無視してさっさと買ってきたものを冷蔵庫に詰め込む。 「夕飯は?」 「食ったよ。アンタは?」 「署で軽く食った。俺はこいつにメシをやるから、先にシャワー使え」 「了解」 黒崎がバスルームに消えると、手早く着替えをして汚れモノを洗濯機に放り込み、ついでに黒崎用の着替えを出しておく。 そしてさっきから足元にじゃれつく犬のためにドッグフードを数種類ブレンドしてやった。 「美味いか?」 尻尾をふりながら一生懸命食べている犬に声をかけると、ちょうどバスルームのドアが開いて黒崎が出てきた。 「アンタ、ほんと犬にはやさしいよな」 「ずいぶん早いな……って、おい、頭くらい拭いて来い!」 髪の毛からぽたぽた滴を垂らしながら歩いてきた黒崎は、ああ、と呟いてぶるぶると頭を振った。水滴がそこら中に飛び散る。 「よせ馬鹿!」 神志名は黒崎の腕を掴んで押さえつけると、彼が肩にかけていたバスタオルを取り上げて乱暴に頭を拭き始めた。 「猫か、お前は」 「……猫ならこんな大人しくしてないぜ」 「そういうもんか」 「アンタ猫を飼ったことは?」 「ないな」 神志名は気まぐれで愛想のない猫よりも、従順でまっすぐに愛情をぶつけてくる犬の方が好きだった。 実家でもずっと犬を飼っていたから、特に猫が欲しいと思ったことはない。 ―――いや、子供の頃、一度あったか。 ふと思い出す。 子供の頃、クラスメイトで猫を飼っている少女がいて、冬は一緒の布団で眠るととても温かいのだと言っていた。 神志名が飼っていたのは大型犬だったからそれはとうてい無理な話で、とても羨ましかったのだ。 くっつかれるのを嫌がるという印象のある猫が、人間と一緒に眠るというのも意外だった。 それで、一度猫を飼って一緒に寝てみたいと―――。 「あ」 「あ?」 そういうことか。 突然止まった手に、黒崎が顔を上げる。 「もういいのか?」 「あ、ああ」 「まったく乱暴なんだから……こんなんすぐ乾くのに」 また猫のように頭を振る黒崎に、思わず笑いが漏れた。 それに気づいた黒崎が不審そうな顔をした。 「何かおかしいか?」 「いや」 と言いながら、こぼれる笑みは止められないのだからかなり気味が悪かったのだろう。 黒崎がおそるおそるとお伺いを立ててくる。 「その……ごめん、次は気をつけるから。床は拭いとくから、アンタもシャワー使えよ」 「ああ、頼む」 頷くと黒崎がほっとした顔で頷いた。 「それとひとつ訂正だ」 「何だよ?」 「猫なら飼ってる」 「え? 飼ってるって……今か?」 目をぱちくりさせる黒崎の肩を掴んで、耳元に囁いた。 「飼ってるだろ、今。半ノラだけどな」 「……俺のことかよ!?」 怒って爪を出そうとした猫を抱きしめて、口づける。 「ん、う」 深く口付けて口内をまさぐってやると、力が抜けてすがりついてくる。 その体を、テーブルの上に押し倒した。 「おい……シャワーは……?」 「猫は水が嫌いなんだろ」 こめかみにキスをしながらシャツの下に手を入れると、「でも汗臭いのは嫌いなんだよ……」とぼやきながらも背中に手を回してきた。 そういえば猫は綺麗好きだと聞いたような気もする。 「じゃあ風呂の中でやるか?」 「冗談」 黒崎の足がするりと神志名の腰に絡みついた。 「そこまで、もたない……」 ―――猫は自分がいちばん寝心地がいい場所を知ってるの。 あの少女の言葉を思い出し、神志名は少し笑った。 ずっと猫を飼ってみたかった。 それがたぶん、この、恋の理由。 |
*猫……。それは恋とは言わないような気もするな神志名……まあ本人がいいならいっか(笑)。 |
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