キスの値段

 最後の記憶は逆光の中、鉄パイプを振り上げた男のシルエットと、それを庇おうとする自分の腕だった。


 鈍い痛みに、神志名は薄く目を開けた。
 やわらかい琥珀色の照明が視界を染めている。
 見慣れない光景に違和感を感じて起き上がろうとしたが、腕が不自然な方向に引っ張られて果たせなかった。
 何だ?
 手首に金属の感触と、冷たい鎖の鳴る音。
 無理やり首を巡らせ、自分が手錠で両手をつながれベッドに転がされていることに気づいて神志名は愕然とした。
「目が覚めたか?」
 ふいに横から声をかけられる。
 ベッドから少し離れた場所に椅子があって、そこに逆向きに腰掛けて煙草を吸っている男がいた。
 よく見知った、影のように黒ずくめの男。
「黒崎……?」
 なぜここにこの男がいるのだろう。
 いや、それ以前に。
「おい、ここはどこだ? 何で俺は繋がれてる?」
「何も覚えてないのか?」
 影がゆらりと立ち上がった。
「何を……っつ!」
 叫ぼうとした途端、頭がひどく痛んで呻く。
 と同時に、自分に殴りかかってくる男の姿がフラッシュバックした。
「思い出した……俺は、あいつに……浅井組の那須ってチンピラにいきなり殴られて……」
「アンタ、那須が小銭稼ぎにやってた詐欺を調べてたろ。
組には内緒のバイトだったから、アンタに突付きまわされるのが嫌だったらしいな。警察官に手を出すなんて、馬鹿な真似をしたもんだ」
 警察官に対する暴行や殺人は犯罪組織にとって絶対的なタブーだ。
 警察は、身内に対する犯罪は決して許さない。
 警察という巨大な組織を敵に回せばどうなるか、彼らはよく知っているのだ。
「その上あのチンピラ、とんだいくじなしで、アンタが頭から血流して気絶したのを死んだと勘違いして、真っ青になって兄貴分に泣きついた」
 神志名は額に巻かれた包帯に手をやった。
「なるほどな」
「で浅井組はようやく事の次第を知って、ともかく気絶してるアンタを闇医者に運び込んで手当てして……で、さあこれからどうしようってことになった。馬鹿な連中だよな」
「確かに馬鹿だな」
 一番いい手は組と縁を切ってから那須を詐欺で逮捕させてしまうことだったのだが、キャリアに対する傷害に拉致監禁となると警察も本腰を入れてくる。
 いずれにしろ浅井組はかつてない危機に陥ったわけだ。
 そこまではわかったが、まだわからないことがあった。
「……それがどうして、俺はお前とこんなところにいる?」
 見たところ、安いビジネスホテルのようだ。
 聞くと、黒崎は苦い笑みを浮かべた。
 煙草を灰皿に押し付け、ゆっくり立ち上がる。
「俺がアンタを買ったんだよ。一千万で」
「何……?」
「アンタにならもうちょっと出してもいいと思ったけど、値切れるなら値切らないとな。アンタに浅井組に手は出させないって条件つけて買い叩いた」
「馬鹿を言え! ここを出たら必ずあの組は……」
「ここを出る?」
 ふいに黒崎の声の温度が低くなった。
「忘れてるみたいだな」
 ぐいと胸倉を掴んでのしかかり、黒崎は神志名の鼻先で囁いた。
「アンタは俺が買ったんだよ」
 獰猛な獣のような色の目に一瞬気圧される。
「それともアンタが払ってくれるわけ? 1億円」
「い……ちおく? 一千万だろ」
 かすかに感じた脅えを気取られまいと神志名は黒崎を睨みつけた。
「それはアンタが大人しくしてるって条件でだ。アンタが浅井組に手を出したら俺は消される……逃げるには金がいるだろ?」
 言われてようやくそのことに神志名は気づいた。
 異常な事態にコクイチ合格のキャリアの頭脳も回らなくなっていたらしい。
「お前、なんで俺を……」
 助けた、という言葉を飲み込む。
 必死に感情を読み取ろうとする神志名の視線から逃れるように黒崎は背を向けてベッドの端に腰掛けた。
「まあアンタが浅井組をどうにかしようっても無理だろうけどな。証人が消えたから」
「証人……おい、まさか!?」
 この場合、浅井組を叩くのに必要なのはまず神志名に手を出したチンピラだ。
 その証言が取れなければ、浅井組は知らぬ存ぜぬを決め込むことができる。
 かといってひとりで暴れまわって組を面倒に巻き込んだチンピラひとり、わざわざ逃がしてやるほどヤクザは甘くない。
「あいつは消されたのか?」
「さあね……俺が知ってるのは、あいつはいなくなった、ただそれだけだ」
 知らない方がいいことはたくさんある。
 そういうことだ。
 そう語る背中が途方に暮れる子供のようで、神志名は自分が置かれた状況を忘れて手を伸ばしかけた。
 手首の金属がしゃらりと音を立て、黒崎がはっとした顔で神志名を見る。
「……逃げたいわけ?」
 ひどく切ない、泣き出しそうな表情で、神志名は泣きたいのはこっちだ、と怒鳴りつけそうになるのを必死に堪えた。
「逃げないから、外せ」
「嫌だ」
 言い放つと同時に黒崎が神志名の上に馬乗りになって、両肩を押さえ込む。
 普段ならひとまわり小さな黒崎に押さえ込まれることなどありえないが、両手を手錠で繋がれた今は抵抗のしようがなかった。
 悔しさに顔を歪めた神志名をじっと感情のない目で見下ろしていた黒崎は、ふいにその眉間の皺に口付けを落とした。
 殴られるのかと一瞬目を閉じてしまった神志名は、その柔らかな感触に呆然と目を開ける。
 黒崎がどろりとした、死んだ魚のような目で見下ろしていた。
「……どうしたらアンタ、俺のものになるんだろうな」
「何?」
「抱けばいいのかな」
 黒崎は神志名のネクタイに手をかけ、しゅるりと引き抜いた。
「おい!?」
「アンタ、いつもきっちりネクタイ締めてるよな。……アンタがネクタイ外す時の仕草が、すごく好きだって言ったらおかしいか?」
 耳元に息を吹きかけて囁く。
「ああこいつ今から俺を抱くんだって……そのためにそのネクタイを外すんだって思うと、いつもそれだけで興奮した」
「止めろ!」
 囁かれる内容もさることながら、耳を舐められて神志名は身をよじった。
「よくない? 男を抱いても、抱かれるのは嫌なわけ?」
「ちが……」
 どうしても上がってくる息をこらえて黒崎を見上げる。
「お前は本当に、こんなことがしたかったのか? そのために俺を買ったのか?」
「―――アンタはどう思う?」
 聞き返されて、言葉に詰まる。
 何と答えても、黒崎には届かない気がした。
 逡巡するが、「ねえ?」と促されて、唇を湿しながら口を開いた。
「……わからない」
「何だ」
 大人の答えにがっかりした子供の口調。
 どうして空は青いの、どうして夜は眠らなくちゃいけないの、どうして、どうして、どうして?
 子供を魅了する不思議な謎に、満足する答えを返してやれる大人はどれくらいいるだろう。
 神志名は一瞬そんな馬鹿なことを考えた。
 そして自分も、子供に夢のある答えなど与えてやれない大人になったことに気づいた。
「だけど俺を抱いたって、俺は、お前のものにはならない」
「何でだよ」
「じゃあお前は、俺に抱かれて、俺のものになったか?」
 質問返しは大人の答えの中でも最低だと思う。
 思うが、それが答えだった。
「は……」
 黒崎が低く笑った。
「最低……」
 力が抜けたように神志名の上にへたりこむ。
 重いぞ、と文句を言おうかと思ったが言わなかった。
 それから背中を撫でてやりたくて、手錠を外せと言おうかと思ったが、きっと断られるだろうと思ってやっぱり何も言わなかった。
 黙っていると、黒崎の体温と鼓動が伝わってくる。
 素肌をぶつけあうことはあっても、こんなふうに穏やかに抱き合うことはなかった。
 ―――こいつが欲しかったのは、結局、こんなものなのか。
 神志名は深いため息をついた。
 その胸に頭を載せていた黒埼がびくりとする。
「……もし俺が」
 少しだけ顔を上げた黒崎に囁いた。
「もし俺が警察を辞めてお前のものになると言ったら、お前は詐欺師を辞めるか?」
「…………」
 黒崎は神志名を見つめて、そうして、泣き笑いの顔で言った。
「……アンタは、辞めないよ」
「黒……」
「辞めない」
 笑っているのに、瞳の淵に今にも溢れ出しそうに涙が滲んでいる。
「……そうだな」
 神志名は頷くと、今度は大きく深呼吸して力を抜いた。
「後は好きにしろ」
「え?」
「一千万払ったんだろ」
 命を助けてくれたのだからとは言わない。
 きっと黒崎はそう言って欲しくないと思っているから。
「―――本気?」
「ああ」
 答えると、ぎゅっと目を閉じた。
 黒崎が再びのしかかってくる気配がする。
 けっこう怖いものなんだな、と神志名は思った。
 こいつも俺に抱かれる時、同じように感じてるんだろうか―――。
 ぎゅっと瞑った睫毛が震えたが、指が触れたのは全く予想していない場所だった。
 かしゃりと音がして、目を開けると黒崎が頭上でくくられた手錠の鍵を外していた。
「黒崎?」
「……アンタ馬鹿だよな」
 外れた手錠を抜き去って、黒崎が困ったように笑った。
「何がだ?」
 赤くなった手首をさすりながら慎重に体を起こす。
「俺が一千万払うわけないだろ?」
「何?」
 手錠の鍵をぶらぶらさせて、黒崎は笑った。
「本気で自分にそれだけの価値があると思った?」
「騙したのか?」
「騙される方が悪い……と言いたいけど、それじゃシロサギと一緒だな」
 黒崎の笑みが奇妙に歪む。
 黒崎が、そして神志名がこの世で一番憎んでいるもの。
 それに自分をなぞらえた黒崎に、神志名は枕を放り投げた。
「何すんだよ」
「それで、幾ら払ったんだ?」
「え?」
「お前は『シロサギじゃない』からな―――払ったんだろ?」
 黒崎が嘘を見透かされた子供のように赤くなった。
「……百万」
 まあそんなものか、と思う。
 浅井組にしてみれば警察官殺しなどという厄介な看板を背負わずにすむのなら、熨斗をつけてくれてやりたいくらいだったろうが、そこはそれ、くだらないヤクザの面子という奴だろう。
「わかった」
 ネクタイを締め、上着を取り上げる。
「金は近いうち何とかして返す」
「どこ行くんだよ?」
 ベッドを降りると、黒崎が慌てて呼びかける。
「帰るんだよ。今ごろ署じゃ騒ぎになってるかもしれない」
「そりゃそうだけど」
 時計を見ると神志名が浅井組のチンピラに襲われて既に丸一昼夜たっている。
 大事なキャリアに何かあったかと署長以下大騒ぎしている可能性が高い。
「何て報告する気だ?」
「……適当にごまかしておく」
 神志名の答えに、黒崎が少なからず驚いた顔をする。
「勘違いするなよ、捜査するとお前が連中に消されるからじゃない。例のチンピラが消えて証拠がないから、今は泳がせておくだけだ」
「―――そういうことにしとくよ」
 また、泣き笑いの顔。
 こいつは俺といるとこんな顔ばかりする、と神志名は思った。
 だが死んだ魚の目よりはずっといい。
「―――百万の、手付だ」
「え?」
 そのまま唇を重ねる。
 何度も口付け、忍び込ませた舌で弱いところをくすぐってやると、黒崎の体からふにゃりと力が抜けた。
 引きずられてベッドに倒れこみそうになるのを、慌てて片手をついて支える。
「……本当に、もう行くのかよ?」
 濡れた唇を舐めながら黒崎が問うのに理性がぐらりと音を立てて揺れるのを感じたが、何とか踏みこたえた。
「ああ」
「行かないでくれたら、借金全部チャラにするけど?」
「何が借金だ」
 神志名は憮然として、背中に回った黒崎の手を解いた。
「じゃあキスをもう1回にまけてやるよ」
「大暴落だな」
 お前金貸しの才能はないぞ、と言いながら神志名は言われたとおりもう一度キスしてやった。
 いつもの調子を取り戻した黒崎がなぜか可愛く見えたので。
「……もう行くからな」
「了解。領収書はいる?」
「馬鹿。金はちゃんと返す」
「返せないと思うけどね……」
 黒崎の小さな呟きは神志名の耳には届かなかった。
「また連絡する」
 それだけ告げて、神志名は黒崎を置いて部屋を出た。
 何か騙されたような気分を抱えたまま。


 黒崎はベッドに寝転がり、唇に指を当て小さく呟いた。
「100万ドルのキス、か……」



*100万は100万だから黒崎嘘はついてないよね(笑)!
黒崎にとって神志名は100万ドルの価値があるの!
まあ実際は1億円の大半はオヤジ他の仲介料でしょうが。
あと黒崎ってシロサギから巻き上げた金をどうしてるのでしょう。
大半は次のサギ資金なんでしょうが後は寄付でもしてるのかな?
しかし今回一番疑問なのが、拉致監禁の話が何でこんなほのぼのラブになってしまったのかということで。
本当は真剣に黒崎×神志名にしようかと思ったんですが
私のなけなしの理性が邪魔をしました……。


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