This is not love
開店前のバー『桂』のカウンターで黒崎は頬杖をついてぼんやりしていた。 時折ちらちらと壁の時計に目を走らせる。 だがその都度、時計の針が3分と動いてないことを確認するばかりで、この店の中では時間は止まっているんじゃないかと思い始めた頃。 「最近ご機嫌だな」 「……え、何?」 店の主の桂木がグラスを磨く手を止めてじっと黒崎を見ている。 「ご機嫌だな、と言ったんだ」 「そう見える?」 むしろ今はこの時計のせいでちょっと不機嫌になりかかっているのだが。 だが桂木は淡々と言った。 「待つ辛さも、楽しみのうちだ」 「そんなことあるかよ」 思わず口を尖らすが、桂木はそれに答えず別のことを口にした。 「恋人でも出来たか?」 黒崎は一瞬ぎくりとしたが、素知らぬ振りで答えた。 「アンタの口から、そんな言葉を聞くとは思わなかったよ」 「お前の年なら、おかしな話でもあるまい」 「俺に恋人? アカサギにでもあってんじゃないかって心配してんの?」 「疑わしいなら調べてやってもいいぞ」 案外本気らしい口調に黒崎は慌てた。 「冗談だって。大体、恋人なんていない」 桂木が真偽を見抜こうとするようにじっと見つめてくるのに、思わず俯いた。 「……ホントだよ」 「まあいい」 桂木が頷いて再びグラス磨きに戻る。 カチンとグラスが触れ合う音を聞きながら、黒崎はぽつりと呟いた。 「……アンタから見て、最近の俺はおかしいか?」 「おかしいな」 「即答かよ」 「妙にそわそわして落ち着きがないし、はしゃいでいるかと思えば沈み込む。恋する者の典型だな」 「……恋なんかしてない」 カウンターのテーブルにぱたりと突っ伏して、でも言葉だけは抗議してみた。 「相手は、あの娘ではないな?」 「違うよ」 「クロサギをやめるか?」 「……やめない」 合板ではない、天然の木を使ったテーブルはひんやりとして、けれどどこかぬくもりを感じる。 黒崎は突っ伏したまま、自分に言い聞かせるように呟いた。 「俺は恋なんかしてないし、クロサギもやめない」 「そうか」 「……だから早瀬に俺をつけさせたりするなよ、おっさん」 「そこまで悪趣味ではない」 確かに桂木にとって、黒崎が恋をしようがクロサギをやめようがたいした問題ではないだろう。 ―――だが相手が刑事とバレたら、話は別だ。 詐欺事件は立件が難しいし、桂木は証拠を残すようなヘマはしない。 だが黒崎が証言すれば、かなり苦しい立場に追い込まれることになる。 桂木が高飛びしてくれるならいいが、黒崎が消される可能性もある。 ―――考えてみりゃ、ずいぶん危険な火遊びだよな。 いや考えるまでもなくわかっていたことだが。 「……おっさん、恋をしたことある?」 桂木は地蔵めいた顔でじろりと黒崎を睨みつけた。 「からかってるわけじゃなくてさ。人生の参考に」 「……すべて捨ててもいいと思えるほどの恋はしたことがないがな」 桂木はグラス磨きに戻りながら答えた。 それが真実かどうかはわからないけれど。 「……俺もだよ」 黒崎は体を起こし、桂木を見つめた。 「だから俺も、クロサギはやめない」 たとえこの想いが恋なのだとしても、そのために復讐を止めることはできない。 それが出来るなら、とうの昔にクロサギなどやめている。 ―――相手が誰であっても、それは変わらない。 俺はアンタを裏切らないから。 ―――だからあいつには、手を出さないでくれ。 その声にしない願いを、読み取ったのかどうか。 「……ふん」 桂木は黒崎の目を見て、軽く首を振った。 「お前のようなひよっこの恋愛ごっこにくちばしを突っ込むほど暇ではない」 「そうだよな」 黒崎は苦笑して立ち上がった。 「行くのか」 「ああ」 何時の間にか約束の時間まであと15分になっている。 少し急がないと間に合わないだろう。 まあ自称自営業の黒崎と違い多忙な相手は3回に2回は遅刻してくるのだが。 「2、3日中にシロサギの情報が入る。携帯の電源は入れておけよ」 「了解」 ドアを開けると、この穴倉のような店にかすかに光が差し込む。 振り返れば店の中はなお黒々と、闇に包まれて見えた。 ―――どんなに明るい場所に出ても、俺の影はここに縫いとめられたままだ。 だから桂木が心配することなど何もないのだ。 本当は。 ―――たとえこれが、恋だとしても。 |
*神志名の出てこないカシクロ(笑)。 |
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