夕暮れ

 ほとんど日が落ちたのに明りもついていない部屋の端に、ベッドがひとつ置かれている。
 横たわる人影は半身を起こし、傍らに膝をついた男に縋りつくようにして口付けを交わしていた。
 激しくなる口付けに、互いの呼吸する音だけが部屋に響く。
 男がベッドの上に膝を乗り上げ、横たわる影の着ているパジャマの上着をはだけさせた時だった。
「こんばんわー……具合はどう?」
 突然ドアが開いて、廊下の蛍光灯の明りを背負った影が覗き込む。
 まだらになった光の中に浮かんだものに、氷柱は目を瞬いた。
「……刑事さん?」
 まだ自分が見ているものがよくわかっていないようで、彼女は困惑した顔で問い掛けた。
「ここで、何してるんですか?」
「ちっ」
 舌打ちして神志名が起き上がる。
 その下の人影が、髪をかきあげて小さくぼやいた。
「鍵くらいかけとけよ……」
「いつも開けっ放しなのはどこのどいつだ」
 その声を聞きとがめて、氷柱が声を上げる。
「黒崎……さん、平気なの? 何か、不当な尋問をされたりとか……」
 慌てて飛び込もうとした彼女は、ようやく2人の状況に気づいて立ち止まった。
 神志名のスーツは床に落ちていて、ネクタイは緩んでいる。
 ベッドの上で片肘をついて上体を起こした黒崎の方は、もう片方の手でパジャマの襟元をかきあわせ赤い顔をしていた。
「あの……?」
「どうして君がここに?」
 ベッドに腰掛けた神志名がネクタイを締め直しながら逆に尋問するように聞いた。
「わ、私は……大家さんが風邪で寝込んでるって聞いたから、その、差し入れを……」
 彼女の手に下がったバスケットをちらりと見て、神志名は背後の黒崎に目をやった。
「……だ、そうだ」
「必要ない」
 黒崎が氷柱の方も見ずに切り捨てるように答える。
「俺に構うなと言ったはずだ」
「で、でも、出歩けないんじゃ食事だって……」
「だからコイツを呼んだんだ」
「え?」
 氷柱が困惑して、むっつりした神志名と意地の悪い笑みを浮かべた黒崎を見比べる。
「俺はピザの宅配じゃないんだがな」
「ピザよりアンタの方が美味いよ」
 言うなり黒崎は手を伸ばして神志名の頭を抱え込んだ。
「こら止せ!」
 いきなり口付けられて、神志名が反射的に黒崎を突き飛ばすようにして起き上がる。
「いってぇ、病人にはやさしくしろよ」
「あ、ああ、すまん」
「大体どうせヤろうとしてたんだから一緒だろ」
「お前な……」
 ついうっかり黒崎のペースに乗ってしまった神志名は、だが次の瞬間、氷柱が部屋を飛び出していくのに気づいた。
「おい、待て!」
「追いかけるのかよ」
「ほっとけないだろう」
 急いで部屋を飛び出すと、廊下に氷柱がへたりこんでいた。
 どうやら足がもつれて転んだらしい。
「大丈夫か?」
 手を差し出すと、ぱっと払いのけられた。
 目に涙をいっぱいに溜めての拒絶に、神志名は動けなくなる。
 氷柱はバスケットからこぼれたサンドイッチを乱暴に詰め込み直して、何とか立ち上がった。
 逃げ出すかと思いきや、きっと神志名を睨みつけてくる。
「……前に私に、どうして検事志望の人間が犯罪者を好きになるのかって聞きましたよね」
「ああ」
「なのに自分はいいんですか!? それともあなたなら彼に詐欺をやめさせることができるっていうんですか!?」
 神志名はじっと、氷柱の一途な目を見つめ返した。
「―――俺があいつを好きなように見えるか?」
「……違うんですか?」
 神志名はそれには答えず、煙草に火を点けた。
 大きく煙を吐き出し、さらに問い返す。
「じゃあ、あいつが俺を好きなように見えるか?」
「だって好きじゃないなら、あ、あんなこと……」
「別に愛情なんかなくたって出来る」
 真っ赤になって言葉を濁した氷柱に、神志名はさらりと言った。
「そんな……」
「ないにこしたことはないがな」
 神志名はちらりと背後の扉を振り返った。
「あいつがどうかは知らない。ただひとつだけ確かなのは、あいつが君じゃなく俺を選んだのは、俺があいつに詐欺師をやめさせようとはしないからだ」
 氷柱がぎゅっと手を握り締める。
「でも……でも、あなたは刑事じゃないですか! 彼に詐欺をやめさせようって思わないんですか!?」
「思わないな」
 神志名は淡々と氷柱の叫びを受け止めた。
「―――俺はあいつを逮捕したい」
「た……逮捕?」
 検事志望の女性がそんな言葉で怯えるとは、と神志名は苦笑いした。
 いや、現実を知っているからこそ怯えるのか。
「俺があいつと付き合ってるのは、あいつが詐欺師だからと言ったら?」
「え?」
「俺は詐欺師を捕まえたい―――それがシロサギでも、クロサギでもだ。だからあいつには詐欺師でいてもらった方が都合がいいと、そう言ったら君はどうする?」
「―――最低!」
 神志名の頬が小気味いい音を立て、氷柱は涙を溜めた目で神志名を睨みつけるとそのまま駆け去っていった。
 神志名は黙ってそれを見送っていたが。
「……おやさしいことで」
 背後からかけられた声に、静かに振り返った。
「アンタ、わざと避けなかったろ?」
 シャツを羽織っただけの黒崎が立って、苦笑して神志名を見つめている。
「ふん」
 神志名は赤くなった方の頬を黒崎から隠すように体を傾けた。
「……それで、お前はどう思った?」
「何が?」
「聞いてたんだろ?」
「ああ……」
 黒崎は苦笑を深くして、髪をかきあげた。
「―――アンタにしてよかったと思ったよ」
「そうか」
 神志名は頷き、次の言葉に迷って視線をさまよわせた。
 その様子に今度は色合いの違う苦笑を浮かべ、黒崎は神志名に近づいた。
「煙草くれよ」
「あ、ああ」
 神志名が胸ポケットをまさぐると、「こっちでいい」と黒崎は神志名の手を取って、彼が持っていた煙草を取り上げた。
 煙を深く吸いこむのを、神志名はじっと見ていたが。
「―――彼女とはもう関わらない方がいい」
「引っ越せって俺も何度も言ったんだけどね」
 でも今回はさすがに懲りたかな、と呟く。
「俺とアンタがデキてるなんて、さすがにショックだろうから」
「女は面倒だ」
 神志名がぼやくと、黒崎がまたちょっと笑った。
「アンタに言われたくないと思うぜ」
「悪かったな」
 少し拗ねたような物言いに、黒崎が「アンタ案外可愛いよな」と呟く。
「冗談は―――」
「ごめん」
 いきなりの謝罪に、神志名は言葉を呑みこんだ。
「……何がだ?」
「悪役をやらせちまって」
 煙草を返して、黒崎は氷柱が消えた階段を見やった。
 その横顔に胸がつきりと痛んで、神志名は黒崎の肩を掴むと自分の方を向かせた。
「神志名?」
「―――本心だ」
「――――――」
「お前は、俺が逮捕する。必ずだ」
 その言葉が水のように、黒崎の中に染み込んでいくのが見えた。
 黒崎はちょっとぽかんとして、それから、小さく微笑んだ。
「……やっぱり、アンタでよかったよ」
「そうか」
 片手だけ黒崎の肩に回し、抱き寄せる。
 それは恋人同士の抱擁というより、傷ついた仲間を慰めるようなものだったけれど。
「……神志名」
 黒崎の手がゆっくりと上がり、神志名の背中に回る。
「部屋に戻ってもいいか?」
「辛いのか?」
「違う」
 具合が悪いのかと覗き込もうとした神志名の耳元に甘く囁く。
「アンタが欲しいんだよ」
「――――――」
 神志名の体が漣のように震え、答えの代わりに黒崎に与えられたのは、激しい口付けだった。


*ごめんね氷柱ちゃん……。


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