言えない言葉
side-k

 その日、神志名は大学時代の友人たちの飲み会に出席していた。
 有名私大卒だけあって、皆一流企業や霞ヶ関に就職していて忙しいが、割合頻繁に開催されており出席率もいい。
 生き馬の目を抜くようなエリートたちの競争社会で、人脈がいかに大事かを皆が自覚しつつあるからだったが、まだ若い彼らだけの宴会は学生時代の雰囲気に近い。
 神志名の眉間の皺もいつもよりは薄かった。
「お前、また眉間に皺寄せてるのか?」
 有名商社に就職した男がビールを注ぎながら笑った。
「もう癖だな」
 神志名も少し笑う。
「お前、今は所轄で研修中なんだろ? やっぱり事件現場とか行くのか?」
 身を乗り出してきたのは航空会社勤務の男だ。
「ああ、でも俺は知能犯係だからな、殺人現場なんかには行かないよ」
「そっかあ」
「当たり前だろ、キャリアがそんなとこ行くかよ」
 わいわいと友人たちが騒ぐ。
 学生時代の神志名は法学部の看板ゼミの秘蔵っ子で、サークルもいくつか掛け持ちしていて友人も多かった。
 彼らは一様に、就職時期からあまり笑わなくなり、いつも眉間に皺を寄せるようになった神志名を案じていたが、神志名が何も答えないのでいつからか追求されなくなった。
 それでも受け入れてくれる彼らといる時、神志名は少しほっとする。
「研修っていつまでなんだ?」
「普通は半年だから、あと2ヶ月くらいだな」
「そのあとは?」
「通例どおりなら警部に昇進して警察庁に配属される」
「もう警部かよ、かっこいいな」
「馬鹿、キャリアにとっちゃそんなの序の口だって」
 勝手に神志名を肴に盛り上がっている。
 だがいつものことなので神志名は気にしなかった。
 実のところ、神志名は子供の頃から目立つ存在だった。
 他の子供より何でも上手に出来た―――勉強も、運動も。
 今にして思えば、当たり前のことなのだが。
 幼い頃ほど、年の差による能力差は大きい。
 実際には2歳年上の神志名が子供たちのリーダーになったのは、ごく当たり前のことだった。
 もちろん有名私立大に入りコクイチに合格したのは元々神志名が優秀な頭脳を持っており努力した結果だが、もし詐欺師を伯父に持つ『野添将』としてずっと生きていたら、神志名の人生は全く違ったものになっていたに違いない。
「おーい、そろそろ移動するぞー」
 場所を移して二次会ということで皆立ち上がる。
 神志名はどうしようか迷ったが、複数の手に無理やり引かれていくハメになった。
 金曜の夜とあって、街はいつにも増して華やいでいる。
 酒が入り大声で話しながら歩く仲間たちに取り囲まれ苦笑しながら歩いていると、特に親しくていた岩田がさりげなく隣に立った。
 それに気づいて視線を向けると、ためらいがちに切り出された。
「神志名、貴子さんと最近会わなかったか?」
「どうして―――」
 思わず声に出していた。
 岩田はいつものおっとりした顔を崩さず、だが少し困ったように答えた。
「うん、実は相談されてさ―――お前に今付き合ってる人がいるのかどうかって。彼女、まだお前のこと……」
「わかってる」
 神志名は短く答えた。
 北條貴子は学生時代、同じ大学の英文学部に通っていた。
 某大手企業の重役を父に持つお嬢様で、サークルで知り合った彼女と神志名は約2年間付き合った。
 美人で育ちがよく、日向に咲いた花のように明るい彼女が好きだった。
「それで、お前……」
「でもダメだ」
 愛しているから、駄目だった。
 自分が本当は『神志名将』ではなく、そして官僚としてではなくひとりの、詐欺師を許せない男として警察官になろうとしている事実を彼女には知られたくなかった。
「俺は、彼女を幸せに出来ない」
「そんなことは……」
 言いかけて岩田が口を噤む。
 このことに関しては、どれほど粘っても神志名が口を開かないことを身に染みて知っているのだ。
「すまん」
「いいって、それに、俺に謝ることじゃないよ」
「そうだな」
 しばらくふたりで黙々と歩いた。
「……だけどさ、神志名。もし他に好きな人が出来たなら、そう言ってあげた方がいいと思う」
「そんなものは……」
 言いかけて言葉に詰まる。
 彼女からやりなおしたいと言われたとき、心が揺れたのは確かだ。
 芯が強い彼女なら、全て受け入れてくれるかもしれない。
 神志名が歩むと決めた道を、一緒に歩いてくれるかもしれないと。
 でも、そうしなかったのは。
『―――それとももう、他に好きな人がいるの?』
「おーい、ここだ」
 先頭で誰かが大声を上げ、神志名ははっと我に返った。
 ここがどこかを確かめるように周囲を見渡す。
 宝石のように連なる車のライト、晧々と夜空を照らす色とりどりのネオン。
 歩道を行く人々の列は途切れることがない。
 東京の、ありふれた光景だ。
 だが神志名はふと雑踏の中、横断歩道を渡るひとつの影に目を奪われた。
「神志名?」
「……悪い、ここで抜ける!」
「え、神志名!?」
 慌てる岩田を置き去りにして走り出す。
 道は混んでいてひどく走りづらく、神志名は人ごみを掻き分けるようにして走り続けた。
 なぜ自分がこんなに必死に走っているのかわからない。
「……待て!」
 叫んでも、振り返るのは見知らぬ人ばかりで、目指す影は少しも近づかない。
 向こうは普通に歩いているようなのに、これは自分が案外酔っていると言うことなのかと頭のどこかで冷静に考えた時、ようやく影が立ち止まった。
 高架下のトンネルになった場所で、不思議と他に人が通らない。
 壁に手をつき、荒い息を吐く神志名の前で、影がゆっくりと振り返った。
「何そんなに必死で走ってんのさ、警部補殿」
「……やっぱりお前か」
 顎の汗を拭って呟く。
 オレンジ色の非常灯に照らされて、黒崎の笑みは歪んで見えた。
「よく気がついたよな、あの人ごみの中で」
「こっちを見てただろ?」
 絶え間なく横断歩道を渡る人たちの中で、一瞬だけ動きを止めた影。
 その違和感に目を留めた神志名は、そこによく知った顔を見たのだ。
「偶然アンタを見かけたんだよ」
「声をかければよかっただろう」
 それをまるで、嫌なものを見たようにふいと顔を背けて歩き出すから。
「冗談」
 黒崎がくっと笑った。
「あのいかにも育ちのよさそうな連中に混じってるアンタに、何て声をかけろって?」
「――――――」
 確かに神志名も、他の仲間に誰かと問われたら紹介のしようがない。
 言葉に詰まった神志名に、黒崎は詰め寄るように一歩近づいた。
「何で俺を追いかけてきたんだよ?」
「何で?」
 反射的に鸚鵡返しに問い返す。
 そして初めて、追いかけてくる理由がないことに気づいた。
「何でだろうな……」
 呟くと、黒崎が拍子抜けした顔をした。
「何だよそれ」
「いや……」
「酔ってんだろ」
 黒崎の口調は子供が約束を破った親を詰るようだった。
「そうだな」
 こんなふうな気持ちになるのは、酔っているせいに違いない。
 だから。
 神志名は手を伸ばして、黒崎の肩を掴んだ。
「神志名?」
 そのままコンクリートの壁に押し付けて、耳元で囁く。
「好きだ」
「―――え?」
 ちょうど通りがかった車が鳴らしたクラクションが、その囁きをかき消した。
 問い返そうとした黒崎の唇にそのまま口付ける。
 二度は言わない。
 自分でも、真実かどうかわからない言葉だから。
 ただあの時、咄嗟に胸に浮かんだ顔は。
『―――他に好きな人がいるの?』
 お互い言葉に出来ない感情を口付けにこめて、ふたりはそのまま長い間抱き合っていた。

*珍しく続き物。実は人気者の神志名が書きたかったんです(笑)。


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