CALL

「   」
 耳元で囁かれる。
 『それ』が何なのか理解するより早く、頭の中が真っ白になって黒崎は吐精していた。
 息を整えながら、『それ』が自分の名前―――もう今は誰も呼ぶことがない、自分の名前だったと気づいた。
 瞬きをした拍子に涙がこぼれて、滲んだ視界にようやくその名を呼んだ男の顔が映る。
 黒崎の反応に驚き戸惑っている顔だ。
 神志名がどんなつもりで名前を呼んだのかわからないが、彼が予想したどんな反応とも違っていたのは確かだった。
 黒崎は涙を隠すように顔を背けた。
 この状況では意味がないことはわかっていたが、そうせずにはいられなかった。
 神志名がもう一度『その名前』を呼ぼうと口を開きかけ、同じ反応を恐れたのか唇を噛む。
 代わりにそっと髪を撫でられた。
 先に達した黒崎と違い、中にある神志名はまだ力を失っておらず、辛いはずだったが彼は何も言わずその仕草を繰り返した。
「……いいよ、動けよ」
 搾り出した声は掠れていて、神志名が躊躇う。
「いいから」
 強引に神志名の首の後ろに手を回して引き寄せた。
 自然、深く抉られて喉の奥から抑えきれない声が転がり出る。
 顔を見られたくなくて、神志名の肩口に顔を埋めた。
「ひどくしていいから……もう一度、呼べよ」
 昔は色んな人が名前を呼んでくれた―――家族や親戚や友人、近所の大人たち。
 だが今はもう名前を呼んでくれる人はいない。もう誰も。
 彼はただの『黒崎』で『クロサギ』だった。
 自分で選んだ道だ。
 淋しくなどないと思っていた。
 ―――でも、それはただの強がりだった。
 今わかった。
 ―――アンタはただほんの少し、体を重ねる相手に情を示したかっただけだろうけど。
 そしてそれでいい。
 それ以上の情けをかけられたら、自分は弱くなる。
 シロサギを喰らう『クロサギ』でいられなくなってしまう。
 だから。
「今だけ……呼んでくれ」
 神志名の体が漣のように震え、再び力強く動き出した。
「あっ」
「   」
 突然の動きに溜まらず声を漏らした黒崎の耳元に、もう一度囁きが落ちる。
「……   」
「神志名……」
 自分も彼の名前を呼ぼうとは思わなかった。
 『神志名将』は彼が警察官として生きるために選んだ名だ。
 ―――その名前を選んだアンタを、俺は。
 一瞬泡沫のように浮かんだ想いを、黒崎は胸の奥に押し込めた。
 ただ名前を呼ぶ神志名の胸に何度もすがり付いて、泣いた。


「んじゃまたな」
 神志名に、ではなく犬に挨拶して黒崎が部屋を出て行く。
 もうすっかりいつもの顔だ。
 それを見送ってドアに鍵をかけると、神志名は煙草を咥えたままベランダに出た。
 間もなく下の歩道に見慣れた後姿が現れる。
 いつもと変わらない後姿。
 ―――それが、名前を呼んだだけで崩れるとは思わなかった。
 いつも小生意気な態度を取る小僧。
 どうしてこんな関係になったのか、神志名は今でもわからない。
 いや、答えを出したくないというべきか。
 確かなことは、他人に知れれば神志名のキャリアとしての未来は絶望だということだ。
 我ながら頭がイカれている。
 名前を呼んだのは、ただ―――。
 ただ、何なのか。
 一瞬自分でわからなくなってうろたえた。
 くわえた煙草が落ちそうになって、慌てて掴む。
 ちりっとした痛みにようやく我に返った。
 ―――そう、名前を呼んだのはただ、受け入れる側の黒崎が辛そうで、何か声をかけてやろうとして。
 でも、やさしい言葉が見つからなかった。
 ただ、それだけだ。
 気のせいに決まっている。
 ―――ただ、名前を呼んでみたかっただけだなんて。
 神志名は煙草を消して、もう一度黒崎が歩み去った道を見やった。
 それは彼の行く先そのままに、闇の中に消えていた。
 ―――俺はお前と共に、堕ちたりはしない。
 神志名の選んだ道は、そちらではない。
 神志名は闇に背を向けると、光にあふれた自分の部屋へ戻っていった。


*黒崎と神志名の惹かれあいつつ自分の道を違えることのできない関係がたまりません。
で、黒崎の下の名前っていつ明かされるんでしょうね……。


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